Sakura's Story
父との別れ
私たち家族は夕食に焼肉を食べに行きました。
いつも通りの楽しい外食。
その日も父はお酒を飲み、よく食べ、よく寝ました。
その次の日、父は珍しく昼過ぎまで起きて来ず、布団で寝ていました。
母が買い物に出た昼下がりに隣の部屋にいるはずの父から携帯電話に着信が入ります。「部屋に来てくれないか?」と。
「どうしたのー?」と部屋に行くと、頭が痛いから救急車を呼んで」と父に言われる。
私の父は大の病院嫌いで、ちょっとやそっとじゃ病院に行かないような人です。
そんな人が救急車を呼んでくれ。と言ったのです。
状況がよくわからないまま、救急車を呼び、母に父が頭痛で救急車を呼んでくれと言われたから呼んだと連絡を入れた。
救急車はすぐに到着して、父は歩いて自ら乗って行きました。
その3日後。父はなくなりました。
くも膜下出血でした。
父の他界で180度変わった生活
父は自営業を営んでいました。
私たち家族は都内にある3階建ての一軒家に住んでいました。
祖父母が1階、私たちは3階の3LDKに。
私の部屋は9畳の洋室。ピアノを習っていて、ピアノとテレビとベットと机の置いてある部屋です。
友達が家に遊びに来て、専業主婦の母におやつを出してもらう。
この家には私が6歳の時に越して来たので、父が亡くなった時は築7年です。
父が亡くなったときにはまだ相当のローンが残っていました。
専業主婦だった母は月30万円のローンを払うことは出来ず、相続を全て放棄しました。
家を失った私たち母娘は、母の実家に帰りますが空き部屋がありません。
なので、近くの築50年の木造アパートを借ります。
2人で6畳一間の畳の部屋。窓からは風が入ってきて、お風呂もなければトイレは共同です。
父が亡くなり、母は私が生まれる前にしていた大好きな保育士を諦め、一般企業に勤め始めます。
寝てたときに父の仏壇の鈴が頭の上に落ちてきた時は、なんでこんな。って思った記憶があります。
志した薬学の道
父の死を受け、私は人の健康に関わる仕事がしたいと思い、医者になりたかった。
でも、母子家庭ということは経済的にも相当厳しい。
小さな時から身体の弱いわたしには看護師はたぶん無理。
そしたら、一つの薬を作って何億人もの人を救おう!
薬学に行こう!
と、安易な考えで薬学部へ。
しかし、入学式で校長からの衝撃の一言。
「薬で人は治せません。人を殺してしまうリスクもある。そんな世界にあなた達は来たのです。」
西洋医学は対処療法なので、病気そのものを治すことはできないのだそうです。
父はなぜ死ななきゃならなかったのか
父は、とても私の事を可愛がってくれました。
朝早くに仕事へ行き、夕方には帰ってくる。
一緒にお風呂へ入り、一緒に野球を見て、一緒に夜ご飯を食べる。
休みの日には、キャンプへ行ったり、近所の川で釣りをしたり、朝ごはんにファストフード店へ連れて行ってくれる。
だけど毎日、ニコチンもタールもたっぷり入ったタバコを大量に吸い、度数の高い焼酎をほぼ原液で飲んでいた。
お金もあったので、好きなものを好きなだけ食べ、若干の肥満。
自営業だったので、定期的に健康診断を受ける事もなく、病院には行かない。
祖母の持っている血圧計で血圧を測ると常時180くらいあるのです。
少しでもセルフケアをしていたら、父はまだ生きていたのかもしれません。
生活習慣の大切さ
薬学部で言われたことは真実に近いと思います。
現在の日本の医療は西洋医学に寄っているため、「対処療法」になる訳です。
父が亡くなって、大切な人がいなくなる悲しみ。
経済的にも困窮する。
「健康」であることは、
自分の親や友人、子供に対しての1番の投資だと思います。
健康でいることだけで、自分の大切な人を悲しませず、幸せな思い出もいっぱい作ることができるんです。
今の日本は西洋文化が入ってきて、食生活も和食を食べる人は少なくなりました。
ファストフードである、ハンバーガー屋さんや牛丼店などの野菜は殺菌消毒されているので、ビタミン等も全て消えてしまい栄養が無いこと。
スーパーで売られている醤油や味噌は添加物にまみれて、身体に毒を入れているようなもの。
そして、1番の問題は会社や人間関係でのストレスが過剰にかかっているということ。
そんなことをみんなに伝えて行きたいと思っています。
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